とりあえずやってみる、(感性と悟性と理性)

河野與一と河野与一 悟性(知性)intellectusと理性ratioの序列をみて初めて悟性という言葉を知った。

感性は感じること。悟性は感性で感じたものを感覚的に理解すること、わかってはいるけど説明できない状態。理性は感覚的な理解を言葉によって論理的に理解すること、といった感じだろうか。
一流選手が名コーチになれるとは限らないのも、悟性ではわかっているけど理性ではわかっていないので他人には説明できないからではないだろうか。

それとは逆に、論より証拠、百聞は一見にしかずといった言葉は、感性や悟性を伴っていないと、理性だけではなかなか理解できないよ、ということを意味しているのだと思う。

リンク先ページにも次のように書かれている。

感性と悟性の枠内で理性を働かせていれば問題はないのですが、感性と悟性を離れて理性が暴走すると、認識に失敗します。だから理性が形而上学を扱うのは無理。

河野與一と河野与一 悟性(知性)intellectusと理性ratioの序列

これはつまり、理性には感性や悟性も伴うべきだということを意味する。

最初は「違い」として想定していなかったものが、違いとして見えるようになってくる。実際に作ってみて、目の前でその評価が可能な実物があれば、作る前には想定すらできなかった違いも見えるようになります。
(中略)
「やる前に考える」方法というのは、結局「やらずに考える」方法のことなので、それは手を動かさずに手を動かした効果を想像する、シミュレーションをすることになる。

なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?:DESIGN IT! w/LOVE

まず作ってみることで、できあがった結果を感じ(=感性)、体感的な理解ができる(=悟性)ようになる。その次に理性を働かせるといいのだろう。

感性や悟性を伴わない理性は暴走しやすく、シミュレーションが効果的とは言えない。

では「やる前に考える」ことはするべきではないかといえばそうではない。

すでに何度も経験していることについては、感性や悟性をすでに働かせているので、何をすればどういう結果が得られるかがある程度まではシミュレートできるだろう。

言い換えれば、まだ経験していないことについては、「とりあえずやってみる」こと、感性・悟性によって体で理解する、体で覚えることが最善の方法と言えるだろう。

その感覚的な理解がある一定のレベルに達するまでは、質を求めるよりも量をこなして理解を積み重ねることが有効なのだと思う。