「わかり合う」「わかる」「わかってもらう」こと

議論や会話はあっても『ニッポンには対話がない』 〜共通点がない相手と話すコツ:NBonline(日経ビジネス オンライン)

 社交性といえば「表面上の交際」という受け止め方がある一方で、学校教育の場などでは「心からわかり合える人間関係をつくりなさい」と教えられる。そのことが若い世代の人たちにはプレッシャーになっているのではないか。

このプレッシャーは確かに感じる。
表面的な、形だけのつきあいは悪いことのような気がして、で、無関心を装ってしまう。


これに対し、元フィンランド外交員の北川達夫氏がこう答える。

「わかり合おうなんて思っちゃいけない」


〈これはベテランの外交官ほど言うんですけど、極端な人になってくると、「人間であるということ以外に共通点はないと思うくらいのつもりでしゃべらないといけない」と〉

コミュニケーションというのは、わかり合うのではなく、共通点を探していくことらしい。
これは、相手の中に共通点がないかを探すという行為。


そして、相手の中に共通点を見つけ、その部分が「わかった」と思っても、それは相手が自分に対して「わかった」と思うのと同じではない。(自分がリンゴが好きで、相手もリンゴが好きなことを見つけたとしても、自分がリンゴが好きだと言うことを相手に伝えないと、相手は自分と共通点があることがわからない)
つまり、「わかる」ことと「わかってもらう」ことは別々のプロセスと言うことになる。


このことを今まで勘違いしていた気がする。

自分の興味や関心にばかりとらわれたり、「ほんとうの自分」を表現することによって相手と心からわかり合おうとしていたりしたら、たぶん永遠にできないでしょう

これは、自分のことをわかってもらうことが「わかり合う」ことだと思っている場合の行動だろう。
リンゴが好きな自分をわかってもらいたいなら、まずは相手に質問するべきだろう。


「あなたはリンゴが好きですか?」と。


そして、好きだと答えてから、「私も好きなんです」という。
嫌いだとしたら「私は好きなんですけどね」とか言わずに、なぜ嫌いなのかと質問を続ける。もしくは話題を変える。


こうやって質問を続けると、わかり合える部分とわかり合えない部分がわかってくる。
が、すべての事柄に関してわかるかわからないかが「わかる」ことはないだろう。


でもそれでいい。
すべてをわかろうとしなくても、すべてをわかってもらわなくてもいい。
部分部分の限定的な「わかる」だけいい、と思う。